2014年2月28日金曜日

Ⅲ-3 初期発達

人間は生まれたときから時間に沿って生きています。そしてそれは逆戻りすることはできません。一生、進み続けているわけです。発達心理学では特にこのことを「エイジング aging」といいますが、それはただ単に年齢が増えるというだけではなくて、身体的変化だったり、心理的な変化も絡んできます。
今回取り上げる「初期」というのは、いわば生まれる前を含んだもので、大体は赤ちゃんの時代を指します。このとき不思議なのが「座る→はいはい→歩く」のように、ある一定の順序で行動が出現してくること。これは言葉とかでもそうで、大体はじめて言う言葉は共通しています(バブリングといいます)。これには文化による差や、時代による違いなどは見られません。
これら行動はある特定の月齢範囲で生じること、しかも、教えなくても出現してくることから、あらかじめ誕生前から生得的機構として成立していると考えられます。
言ってしまえば、発達の初期では遺伝的な要因が大きな割合を占めているのでは、ということです(ここで言う遺伝的というのは、遺伝子レベルの話ではなくて、あくまで説明するための概念と考えてください)。
発達心理学ではこういうのをよく双生児研究(つまり、双子を対象とした研究)で見てきました。双子、特に一卵性双生児の場合、遺伝的な要因はまったく同じであり、違うのは環境です。もし、この2人で現れてくる行動が異なるとしたら、それはたぶん環境によるだろう、と考えられます。遺伝的なものであったとしたら、同じようなものがもう1人にも現れなければならないからです。
二卵性双生児の場合は逆のことが成り立ちます。遺伝的には違うわけですから、もし2人に同じようなことが見られるならば、それは環境によるものだろう、と考えられるわけですね。
一卵性双生児を対象にした研究で多分一番有名なのがゲゼルによるもので、これは1人には早いうちから階段を上がる練習をさせておき、もう1人は少し遅らせて練習を始めると、先に始めた赤ちゃんより、あとから始めた赤ちゃんのほうが、階段上りをマスターするのが早いというものです。
ゲセルはここから「生まれる前から行動はプログラムされていて、環境はその方向性に影響与えるだけ」という「成熟論 maturation theory」を唱えます。
しかし、すべての行動がプログラムされている、と考えるのはある意味無理があるのはすぐに理解できるでしょう。
それに、他の心理学分野が述べているように、人は環境との間の相互作用の中で生きています。行動主義で有名なワトソンの「私に12人の子供を与えてくれれば、どのような人間にでもできる」という極端な環境重視主義は別として、それによって行動が変わったり、制限されたり、生まれたりすることもわかってきました。
それは簡単な例でもわかるでしょう。たとえば、雛鳥が1日くらいの間に見たものを親と思う「インプリンティング(刷り込み)」なんかがいい例です(人間ではないですが)。
このように発達の初期に起こった環境との相互作用が後の発達の方向性を決める現象を「初期経験」と呼んでいます。人間を対象に研究することはかなり難しいことですが(倫理的な問題もあるし)、他の霊長類を使った研究によると、誕生後すぐに母親から隔離され、そのような状態が半年も続くと、他の仲間に対し消極的になり、自虐的行為が増え、大人になった後も配偶行動や育児などにマイナスの影響が出てくることが示されています(ハーロウによるアカゲザルを使った実験による)。
もちろん、これをすぐに人間に当てはめることはできません。とはいえ、単純に遺伝か環境か、と考えるよりは、遺伝も環境も、と考えたほうが実にあっている、と今の心理学では考えられています。あとで出てくると思いますが「アタッチメント(愛着)」などが言われるのもそのためです。
さて、赤ちゃんは一般的に能力が低い(何もできない)と思われていますが、これは間違いであることが認知的なアプローチからわかってきています。
もちろん、各器官の機能はまだ完全ではありません。しかし、視覚はすでに動き始めているし(分解能で言えば0.51 c/degくらい。c/degcycle per degleeで、視角1度の中でどれだけ見えるか?の単位。大人は64 c/deg)、聴覚に至ってはすでにお母さんのお腹の中にいるとき(だいたい26週くらいから)から音が聞けることがわかっています。
これらは一般にバウワーをはじめとする「コンピテンス研究 competence researchが明らかにしたことですが、赤ちゃんの能力はそんなに低くない、というより、考えている以上のものを持っているといえるでしょう。
たとえばに生後2日目の赤ちゃんに、まだ生まれる前に聞いていたであろう動脈の血流音を聞かせると、大泣きしていたとしても安静状態になって寝てしまう(聞こえている上に記憶している!)とか、ある程度複雑な音(日本の実験ではお腹の上から落語を聞かせていた(^^;))でもそれは見られるとか、ガラガラの鳴るほうに目が向く(=音源の定位ができる+選択的に注視できる)とか、かなり高度なこともできるのです(ただ、大人と同じかというとそういうわけではなくて、たとえば図形をどう知覚しているかということについてサラパッテクは誕生後1ヶ月くらいまでは図形の頂点や境界にばかり注意を向けていると述べている)。
こういうことがわかってから病院では病室の明るさを昼と夜で変えたり、刺激として音を与えたりするようになりました。
いってみれば、ここに身体的な発達が加わってくるわけです。最初はばたばたするだけだった運動が、筋力とかがついたりしてきて、ちゃんとしたリーチング(対象に向かって手を伸ばす。把握する行動)になったりするわけです。そこまでにたとえば3ヶ月かかったりするわけですね。

Ⅲ-2 発達研究

発達心理学はそれなりに長い歴史を持つ分野です。ただ、今の生涯発達という考え方ではなく、ベースが「人間発達に関する心理学的考え方+それに結びついた方法、たとえばしつけとか育児、教育などの実行」というものでしたので、最初はそんな感じのものでした。
日本を考えると、現在の育児書と大差ないものがすでに1700年代には存在していました。妊娠、出産、乳幼児の扱い方、病気、発育といった面はもちろん、しつけや教育もターゲットとして扱っていたそうです。それだけでなく、成人や老人の精神衛生を扱った本、つまり養生書も存在していました。最近の主流「エイジング」は、すでに存在したわけですね。
本になっていた、ということは、読ませたい側、そしてそれを読みたい側がちゃんといたということで、もちろん学問的研究も医師や儒学者の手によって行われていました(で、そのような人たちがアドバイザーとして本を書いたりしていた)。ただ、今と違って実証的な研究ではありませんでした。
ヨーロッパでも18世紀末までには子供の心理学的特徴を考慮した育児法や生涯発達への関心などが現れています。
当時のトピックを見てみると、年齢関数や発達の記述、ライフコースの多様性や柔軟性への気づき、老年期の機能低下の性質と原因の究明、そしてプラスの変化であるエイジングなどで、今の生涯発達心理学のそれとほとんど変わりません。
これらが19世紀の進歩思想や進化論などと結びついて、学問的な発達心理学の基礎となったといえるでしょう。
では1つずつ細かく見ていきましょう。
「年齢関数 R=f(A)」は、R(発達の指標)とA(年齢の指標)、たとえばビネーの知能検査なんかもその例に漏れないと思うのですが、そういうものから発達を見ようという、非常に代表的な研究課題です。簡単に言ってしまえば「何歳になると~ができるようになる」といったものが年齢関数の情報であり、20世紀前半の研究はこれを確保することにかなりの力点が置かれました。
今では、その年になったから、できるようになったということしかないので、中身が思いっきり不十分だとされていますが、それでも、基準を使って平均からのズレを見たりするときには年齢関数は使っています。ですから、今後も大事な研究の1分野といえるでしょう。
ちなみに、年齢関数を求めるときは、それが「横断法」によるのか、「縦断法」によるのかで、かなり見方を変えなければなりません。
横断法とは、ある時点で異なる年齢群ごとのデータを集めて、それを比較するやり方です。「今の20代と50代でどのくらい戦争に対する知識が異なるか?」なんていうのがそれ。これで求めた年齢による差には、えてして「出生年コホート」というものによる差が混じっています。
1980年代生まれの人、70年代生まれの人~なんていう群そのものをコホートといいます。出生年コホートの場合は、生まれた年でそれをとる。これでデータを集めて、そのまんま比較したりすると、生まれた年によって違うはずの身体的発達の差や社会環境などといったものを考慮に入れないゆがんだものになることが多いです。
もう1つの縦断法とは、1人の人を長いこと追いかけて追跡調査するやり方。しかし、これも一概にいいとはいえません。とにかく時間がかかるし、調査終了まで残る人はえてして元気で、積極的な人だし(他の人たちは亡くなったり、連絡が取れなくなったりして落ちてしまう)、結果を一般化できないとか、いろいろあります。
双方いろいろな問題はありますが、うまいこと使って研究をやっています。中には「シアトル縦断研究」のように、1950年代後半から始まって、今でも続いているものもあります。psycho lab.でやってる調査は典型的な横断研究ですね。また、開始時期を組織的にずらした縦断法を繰り返し、横断法と組み合わせとかいう方法も提案されていますので、研究の際には気をつけましょう。
「発達段階」も長いこと考えられてきた重大な研究テーマです。これのベースは「座る→はいはい→歩く」のように発達には順序があるということ。生物学的な発達観に立てば順序は必然であり、特定の機能の発達に順序があることは、成熟に強く規定されたものといえますが、しかし、学習を重視した考え方では、必ずしも順序性は必然ではありません。経験の違いで発達コースは変わりうるからです。
このような「特定機能の発達順序性」をみる研究はかなり行われています。単純かつ確実なのは、対象を縦断法で観察、調査、検査してその変化系列を調べるやり方。とはいえ、縦断法だから、時間がかかる。
そこで、「横断法で推定する」やり方があり、スケーログラム分析というものをします。発達的に低いものから高いものまで、多様性を含む対象群の特定時点での反応パターンを整理、分析し、基準となる反応があったかなかったかでプラスマイナスをつけ、このとき大多数のパターンが属し、それから外れるパターンが極めて少ない人にしか現れなければ、順序が出てくるというやり方です。
普通はあくまで特定の機能だけを取り上げますが、ピアジェとかエリクソンのように機能間の連関パターンを取り上げることもあります。いわば、総合的で、このような順序性のある段階区分を理論に組み込んだものが「発達段階理論」です。
あと、研究でよくあるのが「予測」です。人間はその子が将来どんな子になるのか、それを考えるのが結構好きです。だからそのようなこともよく行われてきました。たとえば、

Ⅲ-1 発達とは?

発達は英語でdevelopmentといいます。これには開発、といった意味もありますが、ここでいう「発達」というのは、「その人がそこにいたるまでの道筋」です。
今までの発達心理学は主として「子供から大人への変化」がメインなテーマとなっていました。そのため、幼児が母親に対して抱く愛着や、思春期におけるアイデンティティの獲得など、その専門以外の人にも大きく知られるような事柄が、たくさん言われてきました。
もともと発達心理学は児童心理学や青年心理学から分かれて大きくなってきた分野です。つまり、もともとがミクロスケールでものを見ていたわけですから、これはしょうがなかったのかもしれません。
しかし1950年代くらいから研究に実験的手法が導入され、個体の発達の理解より、特定の領域、たとえば知覚とか、認知とか、そういうような特定された発達を議論しはじめるようになってからは、流れが変わってきました。
特に1970年代に起こった「環境との相互作用」という見方の取り入れは、文化や時代といったものも発達に影響することを思い起こさせ、生涯を通じての変化、というものが考えられはじめてきます。
そして今の発達心理学は「生まれてから死ぬまで」を対象とした「生涯発達心理学」です。もちろんそこには今までの発達心理学も含まれています。
この大きなポイントは中年期や老年期といった、比較的今まで議論の対象となっていなかった時期を含めて、「人の一生の道筋」を研究するようになったことです。
そもそも発達という言葉にはよりよい状態へと適応していくという、前向きな変化の意味があります。それを今までは青年期で区切って、あとはないものと考えてきたわけでした。
たとえば具体的な話をすると、発達的視点(歴史的変化+よりよい状態へと向かう変化=それらを捉えるというもの)にもそれがいろいろと見えてきます。
有名なピアジェの「認知発達理論」……これについては後でも出てきます。これは、順次に高いレベルの認知発達を遂げていくという、段階的で前向きな変化です。
社会的学習理論(自分の経験や、他者の経験を見聞きしたことを通じて学習し、それがパーソナリティや態度の変化として表れてくるというもので、社会のあり方が個体内部の心理過程に結びついているという考え方)や、乳幼児体験に注目する精神分析、愛着理論といったものもみな全然違うように見えますが、「現在に至る経過を重視して、これからの未来を考えた上で、過去・現在・未来をまとめる理論モデルを持つ」という点では共通しています。
しかし、中年期以降は必ずしもすべてが「前向きな変化」ではありません。どちらかといえば、いわゆる老化などのマイナス面も増えるわけです。
こういう変化を、衰退や老化といったマイナス面で捉えるのか、加齢現象として価値は置かないのか、はたまた、成熟という意味でプラスに捉えるのか、これが生涯発達というときの、かなり大きなキーとなります。
少なくても生涯発達心理学では、「人は一生発達する」ということがモットーとなっています。
ちなみに、生涯にわたって発達を研究しようとした場合、大きな課題があります。
たとえば、ある年齢的に散らばりがある集団に対して調査をしたとしても、それは、あくまで「その時点で見られる年齢差から、年齢的変化を推測する」という横断的な研究でしかありません。
そのためこれが、必ずしも正しい答えを導かないことがあります。より正確なデータを得るなら、11人を何年も追いかけて、必要なタイミングごとに調査していく必要があります。これを縦断的研究といいますが、これには非常に長い年月がかかります。


このように生涯にわたるを発達を見ていくのは、思っているほど単純ではありません。このシリーズではその発達心理学の一部を垣間見ていきます。

Ⅱ-5 言語

実は数多くの心理学者は言語に注目しています。それは多分、普段使っている「ことば」というものの不思議さなどとともに、この「ことば」が人間を特徴付けているものだからでしょう。
ここでは言語に関わる知識の視点と、言語そのものを見る視点の2つを紹介しましょう。
言語に関わる知識にはいくつかありますが、大きく分けると「言語知識 knowledge of language」と「世界知識 knowledge of the world」の2つになります。
このうち言語知識は、たとえば文法などの「統語論的知識 syntactic knowledge」と「意味論的知識 semantic knowledge」の2つに分かれます。
統語論的知識は単純です。たとえば、この「統語論的知識は単純です。」という文章を、「で、単純、す。統語論は知識的」と書いたら、もうなんだかわかりません。このように人間の言語処理メカニズムをうまく動作させるための知識、たとえば語順とかが統語論的知識です。
意味論的知識は「太郎がひらいた」という文章は、文章としては間違いではなけれど、何が開いたか?という重要な部分が欠落していて、意味がわからない、のように意味に関わる知識です。
これらは、その言語を習得した人なら大体共通していて個人差が小さく、知識をそのものを述べることは大変難しく、ある意味、無意識的に作動する(動作させないようにするほうが難しい)ものとされます。
これに対して世界知識は、
a) 私はお金がない。だから、銀行にお金を下ろしに行った。
b) 
私はお金がない。だから、バイトを1つ増やした。
このような文の意味を理解するときに働きます。aの場合は、銀行に行く、bはバイトを増やすという解決方略を取っているわけですが、お金がないということは一緒です。いわば常識でこの違いを見分けているわけですが、これは個人によって異なる知識であり、また無意識に作動するものでもありません。このような知識を世界知識と呼んでいます。
世界知識は言語理解に重要な役割を果たします。たとえば今のa,bの文には、目標(お金を用意したい)→計画(銀行に行く or バイトする)という構造が見て取れますが、この目標を人工知能学者であるシャンクは次のように大別しています。
充足目標…生存に必要なもので、しばしば周期的に出現。達成に失敗すると、深刻な問題状況となる(食べる、寝るなど)。
快楽目標…楽しみのための目標で、行為自体は充足目標のためのそれと同じ事もある。達成されなくても問題にはならない(食べる、旅行するなど)。
達成目標…社会的。長期的な性格を持つ(地位、権力、知識など)。
維持目標…状態の維持が目的(財産、健康など)。
しかし、文章はこれだけの要素しかないわけではありません。たとえばさっきの文をこういう風にして考えてみます。
c) 私はお金がない。だから、バイトを1つ増やした。しかし、がっかりして帰ってきた。
いったいバイトで何があったのかはわかりませんが、期待はずれだったとか、何か読み取れるものがありますね? とにかく、目標が達成されなかったのだろう、という推論を行うことができます。
これは「がっかり」という表現語に依存しています。「喜んで」に変えてみればわかります。
d) 私はお金がない。だから、バイトを1つ増やした。しかし、喜んで帰ってきた。
このように常識にはその人の目標、その構成、そして感情状態、それとの関連性などを判断するための体系だった知識が存在していると考えられます。
これらに加えて「テーマ theme」という、目標の集合体の存在をシャンクは考えています。たとえば、「お医者さん」は職業上の名前だけでなく、たとえば、常に勉強している(知識獲得目標が高い)とか、治療に熱心に取り組んでいる(課題達成目標が高い)とか、さまざまな推論を引き出すことができます。これは「お医者さん」という概念がそうした目標と計画群を含むものだから、と考えられるわけです。
この概念を拡張したのが「人格特性語」であり、これは人工知能学者のカーボネルが唱えています。たとえば、
1) 野心家のAさんがプロジェクトマネージャである。
2) 
空想家のAさんがプロジェクトマネージャである。
頭についている「野心家」「空想家」という違いだけで、まったく違う人のように感じることでしょう。また目標が違うだろうとか、それに対するプロセスも違うだろう、とか推論もかなり変わると思います。これが人格特性語の役割です。
このようなものは一部コンピュータプログラム化され(だから、AI研究者が多いんです)、「SWALE(説明を作り出すプログラム)」などが知られています。
ここまではもっぱら世界知識を見てきましたが、ここからはもう1つの言語知識も取り上げましょう。
言語知識を考える上で大きな問題が「プラトン問題」であり、言語学者であるチョムスキーが提唱しています。これは、不完全で少数のデータから、どうやって豊かで詳細な知識が得られるのか、という難問です。
たとえば、小さい子供の作る文章は、短く、文になっていないものがあったりしますが、大人になるにつれて普通の文章になります。これはいったいどうなっているんでしょうか?
言語知識は学習可能である、と見ればいいわけですが、うまくつじつまを合わせるのは意外に難しいものです。なにしろ前にも書いたように、言語知識は自動的に、しかも高速に作動します。そして、それに気づくことがない(カプセル性という)ものなのです。
心理言語学や理論言語学といった視点からここを少し眺めてみましょう。
まず心理言語学(音声から単語をどう認識するか? 頭の中にどんな辞書を持っているか? なんかがテーマ)によれば、ことばを聞いてから理解するまでにかかる時間は異常に早く、また、わざと混乱させるようなものを与えない限り、スムースに動作する、とされます。
混乱させる代表例がこちら。
1) the good can decay many ways.
2) the good candy came anyways.
意味は全然違います。しかし、聞くとかなり似ている。こういうものでもない限り引っかからないのです。
耳から入ってくる音声を連続処理しながら、記憶の中にある辞書に照らし合わせる、それをどこがどうやっているのかは、実はまだよくわかっていません。少なくても、辞書式に照らし合わせているわけではなさそうで、音に対応する単語すべてが活性化されるのでは、とはこの世界の第一人者、オートマン先生の言葉。
もう1つの切込みが、理論言語学です。いわゆる「生成文法」なんかがここに入ります。
これによると、まず中心として「普遍文法 universal grammerがあり、それは個別言語の違いに関わらず、共有的、生得的です。ここには「構造依存の原理 principle of structure-dependency」とか「主要部変数 head parameter」なんていうものがあります。
生成文法の特徴は、文化による言語とは考えずに、同じコアをみんな持っていて、発達する過程の中で、個別文法を得て、定常状態に落ち着くのだ、という点です。そしてそのコアは生まれながらにして与えられている、そう考えます。そして、さっきの原理や変数がプラトン問題に解答を与えると考えています。
そして、最新の生成文法理論では「ミニマリスト・アプローチ minimalist aproachという、言語のメカニズムと他の認知メカニズムとの関連を視野に入れたものを考えています。つまり、音声・知覚的機構は言語的なものと密接に関わっており、それはまた、概念や意図といった機構と密接に関わっている、という考えです。
言語の表面をなぞってみましたが、まだまだ浅い部分を触っただけに過ぎません。興味がある人は自分で調べてみてみましょう。

Ⅱ-4 発達

認知の立場から発達を考えると、今までの数多くの心理学的理論が崩れます。たとえば、ピアジェの発達理論などはその代表例でしょう。
ピアジェは発達心理学にとっては「巨人」といわれるほど重要な役割を果たしましたが、死後すぐ、同じフィールドから批判が噴出し、今ではその理論を見ることすら難しくなっています(発達心理学の教科書にはいまだに載っていますし、児童心理学などでもよく引かれる理論ですが、実際にはすでに終わったといえます)
これはピアジェの考え方そのものが根本的に間違っていた、というわけではなく、ピアジェの見方はよかったのだけれども、少し見方が甘かったというか、やり方が下手だったと考えたほうがよいでしょう。
たとえば、ピアジェによれば、赤ちゃんは極めて限られた認知的能力を持ち、それはたとえば動くものを追いかけて見たり、注視する程度とされています。そして成熟に伴って、いろいろな能力を獲得していく、と考えていました。
しかし、最近の研究では必ずしもそうではない、と考えられており、これらは「コンピテンス研究 competence reserachで明らかにされています。
たとえば、ピアジェのいう「感覚運動期」つまり、新生児の頃は先ほども書いたようにほとんど反射的な反応しかできないと考えられていました。
しかし、実験してみると生後10ヶ月の段階ですでに外界の対象を1つの独立した存在として捉えることができることがわかっています。また数に対する初歩的な概念があることもわかっています。
たとえばこんな実験があります。
赤ちゃんの目の前にスクリーンを置き、その右と左におもちゃを置きます。その2つのおもちゃを一度、スクリーンの後ろに入れて隠し、続いて、右のおもちゃをスクリーンから出しては入れ、左のおもちゃを出しては入れます。大人な皆さんならこの時点でスクリーンの後ろには2つのおもちゃがあることがわかりますね?
ここで、スクリーンをどけるんですが、そのとき、実験者がどちらか片方のおもちゃを除いてしまい、1つだけにして提示します。つまり、本来なら2つなければいけないところを1つにしてしまうわけです。
すると、おもちゃを除かないときに比べて、赤ちゃんの注視する時間が有意に長くなったのです!
これはつまり、1 + 1 = 2というある意味計算ができると考えられ、数の概念を持っていると判断できます。つまり、1 + 1 = 1?なんだそりゃ?ってことで、注意して見るようになった、と考えられるわけです。
また、こんな実験もあります。
生後2ヶ月の赤ちゃんに「ある特定の大きさの立方体があると母親が出てくる」という条件付けを施しました。このあと、大きさの異なる立方体を見せたんですが、このとき、そのものとの間の距離をいくら変えても赤ちゃんは条件付けられた立方体に反応したのです。これは知覚心理学でいうところの、大きさの恒常性が成立していることを意味しています。
ピアジェの説で重要な「保存の法則」もすでに4ヶ月の赤ちゃんで見られることがわかっています。物理的な法則についてもある程度は理解できていると指摘されています。ピアジェが6歳くらいにならないと成立しないと言ったのに比べると、えらい違いです。
メタ認知である他人の考えや感情をどのくらいから認知できるか?といったこともすでに研究されています。これによると、たとえば、
誰かがお菓子を引き出しにしまう
→外に遊びに行く
→お母さんがお菓子を見つける
→お菓子を台所の棚に移す
→遊びに行った人が帰ってくる
なんていうスクリプトを見せたあと、「遊びから帰ってきた人は今、どこにお菓子があると思っているでしょう?」と質問を投げかけます。すると3歳児では「台所の棚」と答えるのですが、4歳児では「引き出し」と答えたといいます。
つまり、4歳頃からこのような他人の視点に立った認知ができる、と考えられるわけです。
このように、古い発達心理学が考えてきた理論はここ20年くらいでかなり消え去ってきています。しかしこれらはいまだに教科書には残っていますから、注意するようにしましょう。
さて、この能力が生得的なものなのか、経験によるものなのかはまだなんともいえない部分があります。確実に生得的といえるものがあれば(たとえば、生まれる前、お母さんがお腹の上から落語を聞かせていた赤ちゃんは、生まれたあと、落語を聞くと泣きやむことが研究によって明らかにされている。落語、というところが日本でやった実験らしいですね)、どうにも微妙なものもあるのです。

ただ、赤ちゃんは予想以上に高い能力がある、という視点に立つことが、重要だと思います。

Ⅱ-3 心的表象系

イメージは時間や場所に関係なく、心の中に思い浮かべることができます。どうとでも扱えます。
でも、何でそんなことができるのか?
これに突っ込む時のキーワード、それが「心的表象系」です。定義してしまえば「イメージ(観念や概念ではない、視覚的なもの)や映像を主体とした記号」といえるでしょう。
実は心理学の創始者ともいえるヴントの時代は「内観」という手法でこのあたりにアプローチしていました。つまり当時は意識化されたイメージを報告することが問題ではなかったのです。
しかし、ビュルツブルグ学派という一派から「思考過程は必ずしも意識化されるわけではない」という反論が起き、内観の妥当性に疑問を呈しました。さらに時代は突き進むと行動主義の時代になり、内観はおろか、イメージそのものがもうすでに科学的でない、という理由で(あってもフィクションだとされた)、学問として拒否されてしまい、イメージ研究は内観によらない研究法ができる1970年代まで、ほとんど扱われなくなってしまいました。
つまり、ある意味人間として当たり前な「イメージ」というものに心理学は100年以上の時間をかけているのです。そして、また、他の心理学分野と同様、まだちゃんとしたことをいえないのが、現状です。
なのでここでも、すらすらっと、今言えることを述べましょう。
問題の内観によらないイメージ研究を開発したのはペイビオという学者です。ペイビオは「ある対象が知覚され、記憶されるとき、心象化され、言語化される」として、研究ではまず伝統的な対連合学習を下に「具象性の高い(抽象性が低い)語同士は、具象性の低い(抽象性が高い)語同士よりは再生率が高い」という結果を見出しました。
しかしここでよくわからないものが1つありました。それは再生率の順が「具象性が高い同士→具象性の高い語と低い語のペア→具象性の低い語と高い語のペア」の順だったのです。ここでペイビオが考えたのが、イメージでした。
「ある単語が長期記憶の中にイメージとして保持される場合、それはより、よく記憶されるだろう」
ペイビオはそれを確かめようとして「自由再生法 method of free recall」という方法を使って研究を行いました。方法の説明は略すとして(重要ですけどね)結果を述べてしまうと、
「刺激としての絵は単語に比べてよく記憶される。また、具象性が高い語は低い語よりよく記憶される」
こういうことになりました。そこから「2重符号化仮説」という理論が生まれます。簡単に言ってしまえば、絵は覚える前にイメージ化されてしまい、具体的な言葉はイメージとともに言語的に記憶される、抽象的な言葉は言語的にのみ記憶される、という説です。イメージと言語の2重に符号化されるというところがポイントです。
知覚心理学の世界では、イメージがどのくらい知覚に干渉するか?ということをテーマの研究が行われています。「ブルックスの図形課題」とか「メンタルローテーション」とかがそういった例です。
ここで「マッカロー効果 McCollough effectというものを例に挙げましょう。下の動画を使って、実際に体験してみるがよし。ちょっと時間がかかりますが、不思議すぎて笑っちゃうかもしれませんよ!
1枚目の画像(黒一色の縦と横の線)、これをまず1分、じっと見てください。そしたら、2枚目(緑と黒の横線)が出ます。これも1分見ましょう。最後に3枚目が出ます。そのとき、びっくりするような何かが起こるはず!
[マッカロー効果!]↓クリックして拡大して見ることもできます

[マッカロー効果!]
……さて、ここから先はマッカロー効果を体験したものとして話を進めますね。実はこれが、イメージだけでも起こる、ということがわかって、イメージ研究の世界で大騒ぎになりました。
これを発表したのはコスリンという学者なのですが、彼によれば「イメージは一時的に視覚情報を貯蔵するところ」で、それが長期記憶からの情報を呼び出し、現実の知覚との間を調整するその機能も持っている、としています。
つまり、「イメージは一種のワーキングメモリーだ」というアイディアです。
コスリンはそれを「PET posititron emission tomography. 陽電子放射断層画像法」というものすごいでっかい、脳の活動状態を見る機械を使って確かめています(たまにテレビで見ますね)。もちろん、これに反対意見を持つ学者もいますが、かなりいい線いっているのではないか、と捉えている人が多いようです。
また、よく右半球はイメージをつかさどっている、なんていう話がありますが、それはあながちウソではないことがわかっています。1993年、菱谷氏が行った研究をちょっと引いてみましょう。
この研究ではまず被験者にある形を提示しました。そしてそのあと、被験者にそれを思い起こさせ、それと同時に右、あるいは左手でタッピング(指で叩く動作のこと)をさせました。つまり、タッピングが形を思い起こすのにどれだけ干渉するか、ということを見ようとしたわけです。
測定はさっきのPET。結果はこうなりました。
「高イメージ群では、左手をタッピングしたとき、イメージ生成に著しい干渉があった」
「低イメージ群では、右でも左でもあまりたいした効果はない(右のほうが干渉したときすらあった)」
知っている人も多いと思いますが、、動作系は右と左を反転して大脳半球に伝わります。
「もしイメージ生成が右半球の働きだとしたら、体の左側の動作が大きな干渉効果を持つと考えられる」
この実験はそれをある意味指示する結果を示しているといえるでしょう。

ということで、なんだか研究をずらずら並べただけになっておりますが、イメージ研究は最近のトピックであり、またいろんな機械(PETもそうだし、function MRIとかもそう)が登場している段階です。これからに要注目、といったところで、ここでは止めておきましょう。

Ⅱ-2 計算論

知科学の中でもっとも重要なものの1つがこの計算論(あるいは記号論)です。
この発想のベースにはホッブスの「心の営みとは、心的な記号系(心的表象系)を処理、操作することである」という主張があって、その点から多彩な心理現象を見ようとしています。
ここでいう計算とは算数の四則演算(足し算、引き算、掛け算、割り算)に似たようなものです。
たとえば、国語は基本的な記号「文字」を「適切に結合」して「語」を作ります。そして「文」はその「語」と「語」を「適切に結合」したもの。その「文」をさらに「文」と「適切に結合」させると、このように文章になります。この考え方が計算論です。
もちろんこの計算にはルールが存在します。国語とか英語とか、そういうものなら文法や話者、著者の直感が1つのルール(法則)です。
人間にとっての身近な記号といえば、たとえば文字とか数字とか図形とか、標識なんかのマークとか、絵文字とか、それはもういろいろあります。このうち文字や数字は「内言」という形で現れてくることもあります(たとえば、読んでいる文字を頭の中で言う)。
また人間の頭の中にあるイメージや象徴も記号といえます。これらは「内的表象系」といいます。
これらを取捨選択、判断、意思決定、評価、修正、記憶など操作すること、それが心の役割と考えます。
つまり、計算論をまとめるとこういうことになります。
  • 心は記号の処理・操作系である。
  • 処理・操作とは計算であり、任意の記号と記号を一定の規則にしたがって結合する操作を指す。この規則の基となるものを論理構造という。
  • 記号の集まりである記号系と、個々の記号と記号を結びつける規則の集まり(規則系(集合))、これらの総体は現実の意味論である。
  • このような特性を持つ「機械」は具体的に作ることができる。
最初の2つは先ほどまでで説明しましたが、3番目に「意味論」という新しい言葉が出てきています。
ここでいう意味論とは「パースの意味論」です。いくつかの側面があるのでそれぞれ説明しましょう。
まず1つ目が「記号と記号の指示対象関係に関わる」狭義の意味論です。たとえば、「机」という語は「面があって、足があって…」という指示対象が意味するように意味します。この考え方が狭義の意味論です。
2つ目は「語の意味に関するもの」語用論と言ったりします。たとえば、人の背中を机代わりにして何か書くなんてとき、背中は机になっているわけですが、このような観点からのものの見方が語用論です。
3つ目は構文論。記号と記号の間の関係構造を指すものでして、記号論における心の意味はこれに当たります(記号系+規則系=意味)。
ややこしいですが、図にするとこういうこと。
         パースの意味論
ということで、ここでは構文論にスポットを当てましょう。そのために、超単純な「三段論法」を考えてみます。
ちなみに三段論法とは、「人はいつか死ぬ そして私は人である ゆえに私はいつか死ぬ」(ダークだな(^^;))みたいなもののことで、ここの「~は~である」という主語と述語でできた文を「命題」、その一番最初のものを「大前提」、次を「小前提」、最後を「結論」といいます。導き方としてはABC。このBCの過程が「推理」です。
この命題「~は~である」というのは交換可能です。つまり、「~でない」という否定もありえます。よって、
すべてのspである(sap / すべてのspではない(sep / あるspである(sip / あるspではない(sop
これらがあり得、その可能な組み合わせは、
   

格(図式)
1
2
3
4
                                        
大前提
MP
PM
MP
PM
小前提
SM
SM
MS
MS
                                     
結論
sp
sp
sp
sp
(これらそれぞれの間にa,e,i,oのどれからが入る)

から、大前提、小前提、結論それぞれで4タイプ、つまり256通りありえます。このうち論理的に可能なのをa,e,i,oだけで表すと(これをアリストテレスが発見したのでアリストテレス論理学という)、
1) aaa, eae, aii, eio  2) eae, aee, eio, aoo  3) aai, iai, aii, eao, oao, eio  4) aai, aee, iai, eao, eio
19通り(重複を除くと10通り)。そのうち誤りが2つ(第3格のaaieao。アリストテレスの発見から2千数百年後にブールが発見(ブール代数)、現代記号論理学につながる)あることがわかっています。
もう大半の人がついてこれなくなっていると思いますが、今、人間の思考過程を数学にしようとしているのです。そして、この現代記号論理学が、計算論には重大なパワーを持ちます。
先ほど計算は四則演算に似ているといいましたが、これを具体的にしてみましょう。
ここで、任意の命題pqに対して、条件文「~して、~だ」をAND、「~、あるいは~」をOR、「~ではない」をNOT、「~なら~だ」をIF-THENで表します。この命題pqは「真か偽か yes or no」のどちらかなので、2進数に置き換えると、実はこの条件文、2進数の計算になります。
p
q
p and q
(x)
p or q
(+)
not p
(1-p)
not q
(1-q)
if p, then q
p(1-q)=0
1
1
1
10
0
0
1
1
0
0
1
0
1
0
0
1
0
1
1
0
1
0
0
0
0
1
1
1
何をやったかわかりますか? これは心の働きを計算に置き換えたのです。
この2値の処理にスイッチを用いれば電気的な回路になり(回路図は略)、発展させればプログラムになります。サンプルにCで「1000円未満のおつりに最適な硬貨の枚数を10円単位で求めるプログラム」を書いてみましょう(ソースの中に書いてあるので解説はしません。コンパイルすれば一応、動くはず)。
#include <stdio.h>

main(){

int money;
int yen500 = 0,yen100 = 0,yen50 = 0,yen10 = 0;

printf("お釣りの金額を入力してください(1000円未満10円単位で) : ");
scanf("%d",&money);

/*500円以上の時、500円玉の枚数を求める*/
if(money >= 500){
                yen500 = 1;
               /*ここで、次のif文に引き渡す額を計算、moneyに代入*/
                money = money - 500;
               }

/*100円以上の時、100円玉の枚数を求める*/
if(money >= 100){
                yen100 = money / 100;
               /* %は、あまりを求めるときの演算子 */
                money = money % 100;
               }

/*50円以上の時、50円玉の枚数を求める*/
if(money >= 50){
               yen100 = 1;
               money = money - 50;
               }

/*10円以上の時、10円玉の枚数を求める*/
yen10 = money / 10;

printf("500円が%d枚、100円が%d枚、50円が%d枚、10円が%d枚です。\n",yen500,yen100,yen50,yen10);

}
このアプローチは命題論理学がベースなのですが、これより深くへは「述語論理学」などを知らないとダメです。「ゲーテルの不完全性定理」とか、「オートマトン(自動機械)」とか、「チューリングマシン」とか、ありとあらゆるものを説明するところからはじめないといけないのでここでは割愛。
ただ、「心=計算」と認知科学は考えていて、それが「人工知能 artificial intelligence」なんてのにつながっていることは覚えておいてください。

ちなみにオートマトンとか、チューリングマシン、その前にチューリングって言う人については、技術評論社「あなたはコンピュータを理解していますか?(梅津信幸・著)」あたりがわかりやすいと思いますので、ご参考までに。

Ⅱ-1 認知科学とは?

認知科学は20世紀の中ごろになって登場してきた学問で、比較的新しい分野です。
英語で書けばcognitive science. つまり、認知 cognitionを対象とした研究分野です。
心理学にも「認知心理学」という分野がありますが、認知科学の基礎には「心理学」はもちろん、「計算機科学」「脳神経科学」「言語学」「論理学」など、さまざまな学問が入り込んでいるので、広範な分野に対応しています。
ここで述べておかなければならないのは、心理学と認知科学の違いでしょう。同じ心を扱う学問ではあるのですが、その研究方法というか、スタンスというか、そういうものが若干異なります。
心理学では、人間や動物を使って何がどう起こるのかという実証的研究があくまでメインです。逆に、実証的研究で成り立たないものは、あまり信用されないし、どうでもいいとして扱われがちです。
これに対して認知科学は、そこからは1歩引いたスタンスで、システムとしての人間の1部分(モジュール)が何のためにあるのか、具体的なことについて計算機でシミュレートしたりして、理論を優先させます。
はっきりいってしまえば、事実や法則よりも、認知科学では理論が大事なのです
この認知科学を定義的にいえば「人間の精神機能・活動、その中でも推論や問題解決、意思決定、言語、さらには感情、音楽認知、美的評価なども含めて研究していく学問」ということになるでしょう。
ここに感情や音楽認知、美的評価があるのが特徴ともいえますし、また、特に思考や言語というジャンルの研究はものすごいものがあります。
こういう認知科学の最大のベースは「心は計算可能である」ということです。
ここでいう計算とは、「記号と記号」「イメージとイメージ」「知識と知識」など、幅広い意味で計算が可能という意味です。もちろん、心の中の抽象的なものが対象ですから、漠然なものであったりもしますが、言語なんかの場合、「主語 S+動詞 V+補語 C」(これは英語ですね)なんて形で結構見える場合もあります。
デカルトの心身2元論やホッブスの計算論などに認知科学はその源流を求めることができるのですが、このうちホッブスは「リバイアサン」という著作の中で、「考えることの中心は計算にある」ことをしっかりと述べています
そして、「推理(つまり、考えること)をする機械を作る可能性」が示唆されています。そういう意味では人工知能 Artificial Intelligence, AI 研究の先駆けともいえるでしょう。
またコンピュータ技術や通信技術の発達とともに、単純な思考ができるマシンの開発から始まって、たとえばさまざまなプログラミング言語の開発(LispProlog、そして今につながるオブジェクト指向型言語(CJavaなんか))やサイバネティックス(制御)理論、ゲーム理論などなど、さまざまなものが生まれ、そこに脳の神経モデルの考え方や、視覚の計算理論などいろいろな分野の研究結果みたいなものも加わって、今につながっています。

認知科学は本当に今、動き続けている真っ最中の学問です。ここで述べていることも、すぐに古くなってしまうかもしれないほどの動きようです。ぜひ、注目していっていただきたいと思います。

2014年2月26日水曜日

Ⅰ-9 文化や社会と心

心理学の基本、ついに最終回です。最後は、いわゆる社会心理学とか、比較文化研究などと呼ばれるジャンルのお話をします。
ヒトという生き物は、社会を構成しています。つまり、ヒトとヒトとの間で関係を作って、日常生活を送っているわけです。
ということで、ダイナミックに変化する心と社会というのも切っては切り離せない関係にあります。
まずは、人は他の人に影響を受けやすいという話をしましょう。まずは下の質問を見てください。
アッシュの同調実験
これは社会心理学者のアッシュが行った大変有名な実験です。皆さんは、どれが一致すると思いますか?
多分、すぐわかると思いますが「model」は右の図の「B」と長さが同じです。
アッシュはこのように普通に理解すればすぐにわかるはずのことなのに、人が影響するとそれに左右されてしまう、という実験をしました。
まず、被験者を一人。そして、その周りに被験者のふりをしたサクラを数人並べます。被験者は最後のほうに答えさせるようにします。
一人目のサクラは誰でも間違いだとわかる「A」を言います。その次のサクラも「A」そのまた次も…、とサクラの答えをすべて一致させ、最後に被験者に聞くと、なんと被験者は迷いつつも「A」と答えるのです。
この時、被験者の頭にあるのは「ほんとはBだろうけど、みんなが言うからAなんだろうなあ」ということで、これはその個人の実際の認知・思考を他の人が左右している、という意味で大変面白いことです。
これは、日常生活でもよく見られることでしょう。たとえば、タバコを吸っている人がそばに居ると、どうも吸いたくなるとか、ほんとは味噌ラーメンが食べたいのに、周りのみんながしょうゆラーメンというと、しょうゆラーメンをどうも頼んでしまう(特に、周りが自分より目上だった場合)とか。
このように、社会生活には数多くの同調が見られます
また、社会的な圧力がかかる場面では、とんでもないことさえしかねないこともわかっています。これは、ミルグラムによる実験なのですが、被験者の目の前に電気ショックがかけられるようにしてある人を一人用意しておきます。もちろん、実際には流すことはなく、ここはサクラです。被験者には、電気ショックのスイッチが与えられ、それはぜんぜん感じないレベルから、非常に危険なレベルまで調整することができるようになってます。被験者は、実験者の言うことにしたがって、このレベルを調整して、一体どのレベルで実験を止めるのか、それを見てみたのです。
サクラは電気ショックのスイッチが押されるたびに、迫真の演技をするよう指導されています。ですから、レベルを上げるたびに苦しんでいく姿が被験者には見られるわけです。それでも実験者は「この人は悪いことをしたんだから、もっと強くて当然だ」のようなことを言いつづけます。
さて、あなたなら、どのレベルで止めると思いますか?
普通、この話を聞いた人は、最初の段階でやめるとか、危険がないレベルでやめてしまう、ということが多いのですが、実際には、ほとんどの被験者が非常に危険な最大レベルの電気ショックを与えました
ですが、被験者も平気でそれをしたわけではありません。冷や汗をかいたり、中にはひきつけを起こした人もいます。でも、それでも、最大レベルの電気ショックを与えたのです。
この実験で言えることは、人はどうも服従する性質があって、その状況では簡単に自分の考えに屈してしまうということです。これは、特殊な状況下、たとえば戦争中とかそう言う状況ならば、はっきり見られることでしょう。
また「内集団ひいき」ということも見られます。これは、自分の所属している集団を他の集団より優位に見がちである、ということで、それはただ単に、名義的にくくっただけの集団でも見られることがわかっています。「内集団ひいき」をするということは「外集団差別」を行うことであり、自分が優れた集団の一員であると自分のアイデンティティを肯定的に評価するためにそういうことが起こるとされています。
つまりは社会の中の人間は、決して一方的に影響を受けるだけではなく、自分から他の人にも影響与える、つまり双方向的であるのです
これがさらに大きくなっていくと、文化に影響を与えたり、価値観に影響を与えることになります。流行、というのもそういう現象の一つです。
価値観はその国々によって、まったく異なります。アメリカのような個人主義的な国では「自己管理」だとか「快楽主義」「成功」という価値を非常に高く見ます。しかし、日本のような集団主義の国では「伝統」とか「恩返し」「家内安全」といった価値を高く見て、グループの維持・発展が優遇されます。
また、日本のような男性社会と、スウェーデンなどの女性社会では文化がまったく異なります。それに、権力が個人に集中するか、しないかによっても異なってきます。
異文化コミュニケーションが難しい理由は、まさにここです。
社会や文化といったものは、非常にダイナミックに変化しますから、それに一個人は常に影響を受けていることになります。社会的不適応など(不登校、引きこもりなど)、今問題となっていることにも、社会はそれなりに影響をしているはずです。

今後、さまざまなことを考えていくとき、この社会心理学的視点は、かなり重要なものになっていくと思います。

Ⅰ-8 心理臨床

ついにここまできましたね。今回のテーマは、基礎的な心理臨床についてです。とはいえ、心理臨床というのはほかの心理学分野に比べて非常に特異的な存在です。
一般的に心理学者は臨床分野にあまり興味を持っていません。また、その逆もいえます。同じ心理学でも、その考え方に天文学と星占いくらいの差があるのです。
その心理臨床ですが、はっきりいって人を助けたいとか、役に立ちたいというだけではできません。人間全体に興味がないと決してできるものではないといえるでしょう。
クライエント中心療法(クライエントの自発的なものを重視する考え。フォーカシングなど)を提唱したロジャースは、心理臨床家は自分自身の自我が確立していて、しかも、悩みを持って訪れた人がどんな状態であってもそれをありのままに受け入れて、同情ではなく、共感的理解(クライエントの考えている世界を自分のもののように考えること。自分と照らし合わせて考える同情とは違い、ありのまま受け入れる)ができなければならない、と述べています。
この共感的理解こそが、カウンセリングの基本的なスタンスです。
さて、心理臨床を必要とする人はかなり幅が広いといえます。うつ病などで悩みを抱える人から、まったく問題がない人まで、しかも個人のみでなく、集団、社会までがその対象です。そのため、病院やカウンセリングルームだけでなく、児童相談所や警察、裁判所、はたまたは学校や職場などにまで、臨床現場はあるといえます。
心理臨床家のスタンスは、悩みを抱える人が自らの力でよくなっていく過程をサポートすることであり、決して治そうという姿勢ではありません。また、心理臨床家と悩みを抱えて訪れてきた人、すなわちクライエントとの間は、信頼関係が最重要なものとなります。
その一つの例が「治療契約」です。心理療法を始める前、心理臨床家はクライエントとの間に、守秘義務を守ること(家族にも明かさない)、クライエントは心理臨床家の指示に従うこと、いつ心理療法を行うのか、費用はどのくらいなのか、といったかなり細かいことをクライエントと意思疎通を取りながら決めていくことがあります。これにはもちろんそのとおりに実行するという契約の意味もありますが、それだけでなく、心理臨床家もクライエントも、これから一緒にやっていくんだという意識をはっきりさせ、信頼関係を結ぶという意味で非常に重要な意味があるとされています。
このように、心理臨床家とクライエントとの間に最も重要なのが信頼関係なのです。療法家はこの信頼関係が維持できるよう、最善の努力を尽くさなければなりません。そのためにも、その人全体に興味が持てて、そしてその人全体を受け入れることができる許容力が必要とされます。
この信頼関係が維持されている中でまず行わなければならないのが、その人がどういう人であるのかという、心理アセスメントです。
心理アセスメントでは、その人の生育歴や家族関係、社会関係といったものを聞いたり、質問紙やTAT、ロールシャッハテストといったさまざまな手段でその人の心理状態を調べます。たとえば、うつ気味で悩んでいる人がいた場合、今までどうだったのか、会社ではどうなのかといった、まるで内科の問診のようなことしたり、BDIという質問紙を使ってその人の抑うつ状態を評価します。
この上で心理臨床家は、その人に最もよくあう心理療法を行います。ですから、必ずしも精神分析療法だけを行ったり、夢分析をするわけではないのです。
最もよく行われるのは、ベックが始めた「認知療法」と、条件付けの考えを元にした「行動療法」です。認知療法はたとえば、なぜか電車に乗れない人がいたとして、その人が電車に乗るのが怖いと言った場合、なぜそう考えるのか、他の考え方はできないのか、といった形で認知プロセスを修正する療法です。行動療法は、電車に乗ることを徐々に慣らしていく、という感じでしょうか。
これらは非常に効率よく問題を解決できるので、よく行われます。比較的短期間(長くて数ヶ月)に決まった回数を行うということが多く、「治療契約」でそこら辺を具体的に決めることがあります。
精神分析療法(夢分析を行ったり、クライエントに言葉によって働きかけたりする。自由連想、遊戯療法など)や、ユング派の精神療法(客観的な夢分析を中心にイメージを考えるもの。リフレーミング、箱庭療法など)などは、これらによっても改善されない場合などに行われます。かなり長い時間(下手をすると、15年とか)と頻繁な回数(週2回とか)が必要とされますし、また費用もかなりかかります。
この際気をつけなければならないのが、長い期間心理療法を行うと、クライエントが心理療法家をいろいろなものに見立ててしまうことがあることです。特に精神分析では、クライエントが話すとき、親や恋人に話しているようになりやすいので、本当の親や恋人に見立ててしまったりします。これを転移といいます。また、療法家がクライエントをいろいろなものに見立ててしまうという、逆転移というのも起こり得ます。
これは信頼関係ではありません。軽いものならいいですが、強くそれが現れた場合、その後の心理療法に大きく影響を与えます。クライエントが知らぬ間に「変わりたくない」と、療法に対して抵抗していると考えたほうがよいといえるのです。
また心理療法では、言葉が重要な道具となります。しかし、その使い方は非常に難しく、たとえば「うつ病の人に『頑張ってください』と言ってはいけない」というのもその例でしょう。これは実際の統計結果でも示されています(応援されるほど、自殺率が上がるという形で示されている)。
ですから、心理療法というのは、その人その人にあったオンデマンドなものを療法家が実践することがほとんどです。クライエント中心療法の考え方と、認知療法の考え方を混ぜたりといったこともあります。
また一般的に、精神分裂病のような精神疾患から、うつ病、解離性同一性障害(一般に多重人格)、パニックディスオーダーのような不安障害、人格障害といったものまで、かなり幅広い範囲で心理療法の対象となりえます。しかしその際は、薬物療法と併用して心理療法が行われることが普通です。
心理療法と薬物療法は車の両輪のように関わりあいます。どっちも必要ですから、どちらかだけで何とかなると考えるのは間違いです。
日本では薬が使えるのはお医者さんだけですから、実際には精神科医と心理臨床家、看護婦やソーシャルワーカーといったさまざまな人がクライエントに絡んで、少しでもその人自身で解決していけるよう、サポートしていきます。
ですから、クライエントの周りである家族や社会にも関わっていきます。スクールカウンセラーの考え方はまさにこれです。学校という社会で児童が悩みを持った際、家族、病院やカウンセリングルーム、学校との間でその間をできる限りいい状態に持っていこうとするわけです。ちなみにそれぞれは自分の利害が関わらないように独立的でなければならないとされるので、教員がスクールカウンセラーをすることはできません。
このように心理臨床というのは、決して部屋の中でクライエントと話をするだけではありません。家族やその周りもひっくるめて、いろいろと考えていきます。そして最終的には、クライエントが自分の力でよくなっていくことが目標です。あくまで、心理臨床家はサポート役です。
このような心理臨床を実践的に行えるようになるには、勉強はもちろん、実際に経験したり、自分よりもっと経験がある人にその経験を見てもらっていろいろ言ってもらったり(これをスーパーバイザ経験といいます)といったさまざまなことが必要です。
心理臨床家を目指す方はぜひ、頑張っていただきたいと思います。